留学体験記 三原唯暉 先生

●英語の施設名●

マレーシア (首都:クアラルンプール)

ツインタワーの見えるクアラルンプールの街並み。

皆さんのマレーシアの印象はどのようなものでしょうか?マレーシアで生活してみた私の回答は「世界で一番日本人が住みやすい国」です。実際にマレーシアは「13年連続で日本人が住みたい国ナンバー1」となっています。ではなぜ暮らしやすいのか、たくさんの理由が考えられます。

まずは国民がとても親日で、さらには日本人への多大な敬意があるということです。1981年に当時の首相が「ルックイースト政策」を打ち立て、急速な経済発展を遂げたことが大きなベースとして挙げられます。この政策とは簡単に言えば「日本に倣え」です。現在もToyota、Honda、Yamaha、Panasonic、Sharpなどといった日本製品のマレーシアでの信頼は絶大です。

家と直結するショッピングモール内のスーパー。いつもお世話になりました

一方で食事についてはマレーシア料理自体もおいしいものが多いのですが、さらに日本と同じように世界各国の料理のレストランが普及しているため、海外生活で大きな弊害となる食に関する問題がほとんどパスできます(物価も今のところは比較的安価のため大変助かりました)。ちょっと足を延ばすと(車で15分くらい)ショッピングモール内に「伊勢丹」があって、マレーシアに来て1ヵ月ほどした時にそこの日本食レストラン街で食べたトンカツは格別でした。

向かって右手のタワーマンションに住んでいました。手前がLRTの駅に直結する通路です。

また自分の生活した首都クアラルンプールはインフラの整備も大変よく、Grab(スマホ対応のタクシーサービス)、モノレール、LRT(電車のこと)など非常に便利で、まったくと言って良いほど困りません。そして、クアラルンプールには20個以上のショッピングモールがあり、私の住まいからも直結した小さめのショッピングモールがありました。そこにはスーパーはもちろん、ダイソーなんかも入っていて大変便利でした。またGrabで5分圏内には超大型ショッピングモール(市野イオンよりもかなり大きいです)がありました。そこに行けば電化製品でも何でも揃うといった具合です。マレーシアは熱帯のため、涼しくてそこですべて完結出来るショッピングモールの開発が非常に進んでいるのです。

さらにどこに行っても英語が通じるのです。標識やレストランのメニューにも必ずといって良いほど英語がマレー語と共に記載されています。このようにマレーシアの暮らしやすさは現時点では諸外国の中で最高クラスだと考えます。

トップクラスのSpine team

Malaysian Spine Society (MSS)という学会での集合写真。女性陣はリサーチアシスタントの皆さんです。

この最高のシチュエーションの中で始まった私の留学生活とは一体どのようなものだったでしょうか?結果から述べますと、この最高のシチュエーションのおかげもあり、最大限のパフォーマンスで日々を過ごすことが出来たということです。私はマラヤ大学(日本でいう東大)の脊椎班の所属となりました。ここではTemporaryの医師免許が発行され、研究だけではなく実際の手術や病棟業務、外来診療、救急待機といった全ての臨床業務にスタッフとして参加することが出来ました。そこで私が遭遇したのは紛れもない「世界トップクラス」の脊椎脊髄疾患に対する医療および研究でした。

1日に5件の特発性側弯症の手術をし終わった時の写真。

マラヤ大学では脊椎脊髄疾患のマネージメントは全てエビデンスと上級医の経験に基づいて「アルゴリズム化」され、レジデントも含めて皆でそのアルゴリズムをPDFデータとして共有しています。そのため毎朝のカンファレンスでは極めて論理的でClearな議論が繰り広げられています。手術については特発性側弯症治療が世界でトップクラスであることは前評判で聞いておりましたが、その他にも脊柱管狭窄症、椎間板ヘルニア、転移性脊椎腫瘍といった疾患の診断および治療、手術についても洗練されていました。また研究についてはここ5年で50本以上の論文が英文誌にAcceptされており、そのほとんどが臨床に直結する内容ばかりでした。これら全てがたった4名の脊椎外科医によって執り行われていました(もちろん、論文についてはリサーチアシスタントの方々が大きく貢献しております)。

私の立場

初めて挨拶に行った時にKwan先生と医局前で撮った1枚。

そのような中で私の立場はどんなものだったのでしょうか?先に述べましたマレーシアでの日本人への敬意、そしてKwan先生(マラヤ大学脊椎班の教授)の松山教授への絶大なる信頼のおかげもあり極めて高評価の立場となっておりました。当初は褒められ、賞賛される日々でした。しかし、やはりその一方では先生方からの厳しい評価の眼差しが常にあったことも間違いありません。そして賞賛されればされるほど、そのハードルは高くなります。そのため私は常に自分のコンディションを保ち、常に考え、そして最大限のパフォーマンスが出来るように過ごしました。妻にも少なからずサポートしてもらいました。大変恐縮ではありますがその日々の自己管理はアスリートのそれに近いとすら思えてしまうようなものでした。マラヤ大学の先生方は常により良い医療を、そして医局の国際的評価の向上を考えており、その先生方と渡り合っていくにはそれ相応の自己管理による仕事のパフォーマンスが必要だったのです。そしてこの場を借りて感謝の言葉を述べさせて頂きたいのは、今まで自分に手術や診断の技術を教えて下さった浜松医科大学の先生方です。そのベースがあったからこそ、何とか渡り合っていけたのだと思います。本当にありがとうございました。

-実際はどのような生活だったのか?

外傷例の手術で頚椎は先輩達が、腰椎は自分とDr. Chungで一斉に行いました。

週間スケジュールは月から木曜日まで朝6時45分~8時までカンファレンスがありました。そこで前日に入院となった症例、手術症例などを皆でDiscussionします。ここには後期レジデント(常に5人くらいが2-3ヶ月のローテーションで脊椎班に所属)も参加しており、彼らの教育の場でもありました。月曜日はその後昼過ぎまで脊椎外来で、その後に翌日の手術症例のインフォームドコンセント、そして夕方からプライベートホスピタルでの手術(夕方5時くらいから22時くらいまで)でした。火曜日は1日大学病院の手術日。水曜日は午前中に翌日の手術症例のインフォームドコンセント、昼からプライベートホスピタルでの手術(20時くらいまで)でした。木曜日は1日大学病院の手術日。金曜日は7時から病棟回診、8時から全整形外科の後期レジデントのための実際の患者さんに診察させてもらって症例検討を行うというカンファレンス、9時から側弯症外来、午後は諸検査(プライベートホスピタルの側弯症例のSide-bending X線 は全て自分かマラヤ大学のFellow (Chung: 親しみを込めてお互い名前で呼び合っていました)が立ち会って撮影します。17時から22時くらいまでプライベートホスピタルでの手術、土曜日は7時半から病棟回診、8時半くらいから16時くらいまでプライベートホスピタルでの手術という予定でした。また毎日の救急待機は基本的に自分とChungが後期レジデントと一緒に救急外来の脊椎症例を対応するといった具合でした。この待機は基本的に後期レジデントがメインで対応してくれるので夜間は基本的にスマホで指示を出す程度で済みました。このように割と忙しく留学生活を過ごすことが出来ました。脊椎外科医の経験的には非常に充実していて申し分なかったと思います。

そんな中で具体的に何が良かったのか?

Kwan先生と一緒にMagnetic Growing Rod症例の対応をさせてもらいました。

挙げたらキリがありませんが、これは良かったなと思うことを書いていきます。まずは本当に側弯症治療について洗練されていました。手術はもちろんです。彼らは独自にDual attending surgeon strategyを開発し、術者は2人同時にペディクルスクリューを打ったり出来るようにしていました。これにより特発性側弯症の手術は1時間半から2時間で行えていました。他の施設が3時間から長いと7時間程度かけて行う手術ですので、その特異さが分かります。そして重要なことはそれが安全なのです。Kwan先生が手術に関して最も大切にしていることは「安全」であることです。ここでは詳細は省きますが、これでもかというほどに「安全」にこだわっています。よく手術中に言われたのが「Don’t rush, slowly」です。また准教授のChris先生と良く言い合っていたのが「Slowly is faster」です。1つ1つの手技を大切にする結果が早い手術なのです。これを1年間共有し留学の後半では側弯症の手術もやらせてもらえるようになっていきました。

准教授のChris先生と一緒に当日の側弯症々例の術前計画をしています。

さらに側弯症については診療についても洗練されていました。まず、独自に80ページほどの側弯症ガイドブックを出版していて、そこにほとんど全てのことが書いてあります。例えば、コルセット治療についてです。コルセットの適応だけでなく、成長の段階によってどれくらいのスパンでfollowしていくのか、コルセット終了の基準や、どのように外す時間を増やしていくのかということまで書いてあります。さらに側弯症々例のインフォームドコンセント用の説明スライドが各外来のPCに入っており、側弯症というものがどのようなもので、患者さんは今どれくらいの重症度で、どのような治療の適応で、この施設ではどれくらいの成績で手術が行われているかまでシェアされています。これらによって全ての患者さんが出来る限り等しい医療を全ての医師から提供してもらえるのです。この診療に自分も医師として1年間参加させてもらったので(最初の1ヵ月はほぼ見学でしたが)、マラヤ大学の側弯症診療のエッセンスは頂けたと考えております。

後期レジデントと手術の合間にスタバのコーヒーでブレイク。

そして後期レジデントたちとの交流も忘れられません。最初は自分がいろいろ教えてもらっていましたし、最終的には教え合い、助け合うという関係でした。彼らに教えることが自分の成長だと考えておりましたので、精一杯勉強し、どのように伝えるのが彼らにとって一番良いのかを常に考えて教えていました。彼らがいたから自分は最高のFellow-ship生活を達成することが出来たのだと思います。

また臨床だけでなく、研究についてはDatabaseシステムが確立されており、自分もマレーシアに行って2ヶ月もしないうちに論文を作成して雑誌「SPINE」に投稿し、後にアクセプトされました。その後も次々に研究をさせてもらい、自分がメインで執筆しているものは合計5本になりました。Kwan先生達は臨床だけでなく、研究をして世の中に発信していくことの大切さを認識しており、自分が「臨床だけでなく研究もやりたいのだ」と伝えたら予想を遥かに上回る対応をしてくれました。本当に感謝です。

日本人たちとの出会い

Malaysian Spine Society (MSS)には演者として参加しました。一番下の写真が自分です。

8月に行われたマレーシアの脊椎学会(Malaysian Spine Society: MSS)には日本のレジェンドの先生方が招待されていました。国分先生は学会前にマラヤ大学に講演にまで来て下さいました。そして学会では鐙先生や田中先生ともお会いすることが出来、Kwan先生の御厚意で自分も一緒に食事にまで同席させて頂きました。それぞれの先生から励みになる御言葉を頂けたのは留学生活の大きなモチベーションとなりました。

仲間たち、岩田先生と飲んだビールは格別でした。至福のひとときでした。

さらに11月には日本脊椎脊髄病学会(JSSR)主導の短期fellowshipで5日間、浜松医大脊椎班の仲間(大江先生、後迫先生)、そして北海道大学の岩田先生の3名がマラヤ大学で研修するというイベントがありました。自分がマレーシアに行って「リラックス出来たな」と心から思える瞬間の1つがこの仲間と過ごした期間でありました。

まとめ

仲間たちとKwan先生達も一緒に医局前で記念撮影。

このように私のマレーシアでの留学経験は大変有意義でかけがえのない財産となりました。もちろん医療だけではありません。マレーシアの先生方のOnとoffがはっきりしておりましたので、自分も休む時はしっかりと休ませて頂きました。マレーシアの西側の名所のほとんどは妻と一緒に巡ることができ、今ではかけがえのない思い出となっております。これもKwan先生や他の先生方の優しさがあってのものだったと考えます。これら素晴らしい経験を少しでも今後の人生に活かせるように精一杯やっていきたいと考えますので今後とも宜しくお願い致します。

クリスマスの超大型ショッピングモールの内装。熱帯地方のクリスマスは派手ですね。
1日に2件、重度の症候性側弯症の手術をし終わった時の写真。
先生方と皆で囲んで食べた屋台料理。アットホームな感じです。
Kwan先生お気に入りのワインバーで乾杯。ここのパスタも大のお気に入り。
脊椎外来での様子。向こうは白衣やケーシーは着ないのです。
カンファ室の風景。この椅子に座って毎朝Discussionしていました。
手術後にインド料理のレストランへ。24時間営業で、この時も23時くらい。
レジェンド国分先生がマラヤ大学に講演に来てくれた時の1枚。カンファ室にて。
レジェンド鐙先生ともMalaysian Spine Society (MSS)の学会会場で1枚。
MSSでは各国のレジェンド達と昼食会をしました。向かって左手にレジェンド田中先生も。
各国のレジェンド達と全体懇親会のあとに洞窟の中にある有名レストランにて乾杯。
アジア屈指のおいしさを誇るハンバーガーショップで仲間たちと1枚。
夜のツインタワーをバックに仲間たちと1枚。
ランカウイ島というマレーシアの北部にあるリゾートアイランド。
マラッカという世界遺産で有名な観光地。写真は世界遺産の教会のある広場。
MSSが行われたイポーにあるイポー駅。このような英国調の建造物がマレーシアには結構あります。
パンコーラウト島という小さな島全体が1つのリゾートとなっているところ。
蛍によるツリー。浜医脊椎班の仲間たちやKwan先生方とみんなで見に行きました。